女川町誌
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元弘三年(一、三三三)五月、鎌倉幕府が滅亡し、建武の新政が始められると、後醍醐帝は東北地方を特に重要視せられ、十月、参議右近衛中将北畠顕家を陸奥守に任じ、皇子義良親王を奉じて陸奥国に下し、奥羽両国を管理せしめられた。時に親王は御年六才、顕家は十六才で、顕家の父親房は出家の身であるから表面に立たず、顕家の後見として下向した。一行は十一月末多賀国府に到着し、ここに久しく衰えていた多賀国府は、建武新政の光を浴びて再び陸奥統治の中心となつた。しかもこの時、鎌倉には足利直義は成良親王を奉じて下つているから、関東と奥州とは、きり離して支配されることになつた。これより多賀国府に於ては、顕家による活潑な政治が行われ、奥羽両国の武士は概ねその命令に従うこととなつた。その政治機関としては鎌倉幕府の機構に倣つて、国府に式評定衆・引付衆・政所・評定奉行・寺社奉行・安堵奉行・侍所が置かれ、公武相並んで奥州の国政を行つたのである。即ち多賀国府に於ては京都の公家、鎌倉の政治家及び奥州の武士によつて公武合体の政治が行われたのであるが、陸奥留守職の地位にあつた留守氏や奥州総奉行であつた葛西氏等の名前がここには見出されなかつた。恐らく留守氏や葛西氏等は旧幕府方と見られたものと思われる。四、建武新政と東北地方このようにして奥州に於ける建武の新政も顕家によつて精力的におし進められたが、武士たちが新政に従つたのは、真にその理想を理解しての事ではなく、自己の所領の確保乃至は拡大をはかるのが目的で、新政に対する忠勤も畢竟恩賞目あてのものであつたことは、当時の全国武士に共通する所であつた。従つて新政は最初から恩賞問題や所領相論に悩まされ、新政府は武士の所領慾を満たすことが出来なかつたから、新政に失望を感ずる武士も出て来たわけで、新政の前途は極めて暗澹たるものがあつた。112
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