女川町誌
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汎な権限を執行するもので、守護職以上のものであつたと見られる。換言すれば奥州総奉行は戦後の奥州を処理するための軍政機関であつた。従つてこれは律令政治系統の陸奥国司とは別個の性格をもつたものであつた。然るに陸奥国司の職掌も後にはやはり頼朝の御家人たる伊沢家景が陸奥留守職に任ぜられてこれを行うことになり、両者共に頼朝の命を奥州に執行するに至つて、いずれも奥州総奉行とよばれるようになつた。しかし両者の間に性格の相異があり、清重の奥州総奉行は主として守護職的なものであつたに対し、家景の奥州総奉行は主として民政財政に当り国司的なものであつた。葛西清重は奥州総奉行に任ぜられ、牡鹿地方始め胆沢・磐井・江刺及び海浜六十六島を与えられて異数の抜擢をうけた。これより葛西氏は伊達氏の時代に至るまで十七代約四百年の長きに亘つて、牡鹿・桃生地方はその治下にあつたのである。清重はこの封土を賜るや治府を石巻に定め、居城を日和山に築き領内の開発に努めたのである。それかあらぬか葛西氏の家紋である三ッ柏の紋付羽織を着用する人が、今もなお当地方には目立つて多い。また葛西氏の旧家臣であつた家々の門前に、サイカチ(皂莢)を植えている所が多く、特に今も磐井・江刺地方を始め葛西氏の旧領内であつた牡鹿地方の旧家に、この巨木の茂つているのをまのあたり見ることがある。これは葛西氏を慕いカサイカチ(葛西勝ち)またはサイカチ(再勝ち)の希望的念願を寓意したものであると言われている。雄勝や女川地方に於ては今もサイカチを門前に植えると、その家が栄えるとか、悪気を払うとか言い伝えて植えている家がある。現に浦宿の阿部正五郎氏宅の如きはその一例である。なおこの地方には葛西氏時代の遺風をうけて、文物・習慣などにその面影を残しているものが少くない。三、北畠顕家と多賀国府111
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