女川町誌
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山に戦を交えてから僅かに二十余日、平泉に百年の栄華を誇つた藤原氏はここに滅び、安倍氏以来約百四十年間奥羽の中央に蟠居した古代俘因の勢力は、ここにその根底から覆えされたのである。これより東北地方は頼朝の勢力下に入り、鎌倉武士が相ついで移住し、彼等を主体とする中世的世界が形成されることになる。第二節中世の女川一、平泉平定と奥州経営文治五年(一、一八九)九月、源頼朝は平泉の藤原氏を滅してから、早速戦後の奥州経営に着手した、先ず動揺の最も甚しかつた平泉地方の寺社に対し令してこれを安堵し、地頭等の寺領違乱を禁じ、また戦乱によつて四散した農民を本所に還住せしめた。更に頼朝は重臣葛西清重をして平泉郡内の検非違使所を管領せしめ、郡内に於て諸人の濫行を止め、罪科を糺断すべきこととした。このような頼朝の適切な処置によつて戦後の平泉地方は次第に平静に帰したのである。ついで九月二十日頼朝は戦後の論功行賞を平泉に於て行い、千葉介常胤・葛西清重・畠山重忠等、従軍の鎌倉武士は多数この地方に於いて新に所領をたまわることになつた。中にも海道方面の総大将であつた千葉介常胤はこの地方に多数の所領を拝領し、『吾妻鏡』にも「最拝領之」と記されている。この時の論行行賞の実際について県史編纂委員佐々木慶市氏の調査によると、県内に所領を賜つた主なる鎌倉武士は次の様である。葛西清重胆沢・磐井・牡鹿外数箇畠山重忠葛岡郡(栗原郡の一部)所武石胤盛(常胤三男)亘理郡109
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