女川町誌
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爾来藤原氏は基衡・秀衡・泰衡に至る四代約百年の間平泉に拠つて奥羽両国の荘園を管領し、東北地方の武士を従え、砂金・馬その他東北地方の豊富なる物産を独占して豪奢を極め、直接京都の院宮権門社寺に贈賄して仏教文化を輸入し、その威はよく国司を圧迫して国司もこれを如何ともすることが出来なかつた。かくて平安末期の東北地方はここに平泉時代を現出し、陸奥俘因の勢力はここに至つて極まつたのである。藤原氏が当時いかに富強を極めたかは、今も存する中尊寺の金色堂を見ただけでも容易に推察される所である。三代秀衡に至つてますます強盛となり、後白河帝にとり入つて遂に嘉応二年(一、一七〇)鎮守府将軍に任ぜられた。藤原氏の国守時代は律令政治の既に衰頽していた時であるけれども、その遺制はなお存し、藤原氏は多賀国府を留守所としてここに目代を派遣していた。また中央政府に対して貢金の義務をもつていたことは恰も荘園年貢を出すのと同様なものであつた。平泉藤原時代のことである。「大金寺僧伝」によれば藤原秀衡は金華山の御殿沢に大金寺外十一か寺、黒沢に斎蔵坊外十一か坊、仁王原に天道庵外十一か庵を建立寄進したと伝えられている。なお現在黄金山神社の宝物殿に保存されている宝物の中に藤原秀衡の写字大般若経六百巻も遺されている。また隣郡志津川地方は往昔本吉と称された土地で、平泉藤原時代に開拓された海道の要地で、秀衡の四男本吉冠者高衡がこの地に居城し、本吉地方の産金と海の富源を掌握した所といわれている。更に本吉郡中部の名峰である田束山たつかねやまは、この地方の霊山として近郷の尊崇するところであるが、旧記によれば安元年中(一、一七五―七七)平泉の藤原秀衡がこの霊山を深く信仰して新に大伽藍を造営し、山上に羽黒山清水寺、中腹に田束山寂光寺と保呂羽山金峰寺を建て、天竺の作金観音を寂光寺に納め、天台宗を修し、七堂伽藍・七十餘坊を107
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