女川町誌
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政策上その伝統的勢力を容認せられ、国郡の設置に際しては郡司などの地方要職に任ぜられ、更に氏姓・位階さえ賜わり、依然として従来の政治的社会的地位を継続することが出来たから、その勢力は最も強かつた。これ等の郡司がその後豪族化する一方、私有地を国司の収公より免れるために、社寺や中央の権門に名義的にこれを寄進し、代りに若干の年貢を進上するようになつた。寄進をうけた名義上の所有者は本所或は領家とよばれた。かくて豪族の私有地が社寺・権門の権威によつて保証され、国家権力の干渉を排斥することが出来た。かかる不輸不入の特権をもつ私有地が平安中期以後各地に成立し、これが荘園とよばれるのである。東北地方に於ては白河庄を始め広大な地域を占め、本県地域内に於ては高鞍(栗原郡金成町附近、三迫の平野)本良庄(本吉郡の中央部)などが知られている。6安倍氏の擡頭延喜・天暦を境として律令制は頽廃し地方政治が紊乱し、社会の不安が増大するに至つて、各地の豪族はここに自衛上武力を貯えるようになつた。これが武士の発生とよばれるものである。この場合武家の棟梁となつた者は地方に土着した中央名門の後裔(例えば源氏・平氏・藤原氏等)或は地方譜代の勢力家であつた。ところで東北地方に於ては後者の場合がより優勢であつて、特にそれが国家勢力の最も微弱な、しかも俘因勢力の最も強かつた奥郡に成長したのである。前九年・後三年の役を起した安倍氏・清原氏、更に奥羽に威を振つた平泉藤原氏の如きは、実にかかる武家の棟梁であつた。彼等の武力が如何に大なるものであつたかは、前九年の役以来、安倍氏は十二箇年にわたつて源頼義・義家の軍を苦戦せしめたことからも察せられるのである。安倍氏は先祖以来俘因の長で、その伝統的勢力は強かつたが、永承年間(一、〇四六―一、〇五二)頼時の代に至105

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