女川町誌
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然るにその後、律令支配体制が次第に崩れ官紀また弛緩し、地方政治また紊乱して社会の不安を増大する傾向が現れた。その上たまだま承和六年(八三九)陸奥国は大饑饉におそわれ、百姓三万八百五十八人は三年間の免租を受けねばならぬ程であり、貞観十五年(八七三)には陸奥国は連年みのらず百姓の生活は全く絶望的なものであつた。天長七年(八三〇)には東北地方に疾病が流行し、死者が続出したので諸国の国分寺に金剛般若経を転読せしめて不祥を除かしめている。特に貞観十一年五月(八六九)の陸奥国の東海地方を襲うた大地震と大海嘯とは実に空前のものでその惨害は甚大なものがあつた。海水は多賀城附近まで襲来した。当時の溺死者は一千三百余人と伝えている。三陸海岸に位する女川地方の如きも恐らく一大被害をうけたに相異がない。当時の記録がないので不明であるが徹底的な惨害を蒙つたものと推測される。(古い記録のまま海嘯と記したが津浪というが適当である)4陸奥国の政情かくて地方政治はいよいよ紊乱し、社会の不安もますます増大し、遂に平安中期以降の律令政治は大体に於て形骸化した。先ず地方行政の根幹たる国司制度は遙任の風が一般化するに及んで崩壊した。即ち国司は任命されても、その身は京に留つて任国に下向せず、しかも国司の俸禄を得、たまたま任国に下向すればただ私利を図るを念としたのである。遙任国司は陸奥国の如き遠隔の地方には最初から多かつたようである。平安時代に陸奥守または按察使に任ぜられた者の中には、中央の政界学界に著名な人々が沢山いる。例えば藤原冬嗣・同良房・同良相・同良岑・同安世・小野篁・源融・藤原基経・同佐世・在原行平・藤原実方等の如きはその主なものである。この中源融・藤原佐世・藤原実方についてはこの地方に赴任した形跡はあるが、他の歴々は実際多賀国府に来任したとは考えられないのである。103

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