女川町誌
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ので、天皇ははるかに勅して進軍を命じ給うのみであつた。しかも五月鎮守副将軍入間広成は精兵二千を率いて敢然北上川を渡つて賊に迫つたが、大敗し辛じて逃れ帰るという苦戦ぶりであつた。2田村将軍の東征非常な御決意のもとに行われた第一回征夷は大失敗に終つたが、豪邁なる天皇は少しも屈し給わず、直に第二回の征夷の準備に着手せられた。延暦十年七月大伴弟麻呂を征東大使、坂上田村麻呂等を副使に任じて軍の編成を行わしめられた。かくて同十三年正月大将軍節刀を賜わり、副将軍田村麻呂以下征途に上り、天皇また伊勢神宮はじめ各山陵に奉幣してその成功を祈られた。征軍十万、大いに賑い賊の要塞七十五箇所を焼き落したというから大勝利を得て蝦夷に甚大な打撃を与えたようである。田村麻呂は実戦の功が最も大であつたという。抜群の功をあらわした坂上田村麻呂は延暦十五年三月陸奥出羽按察兼陸奥守に任じ、十月更に鎮守将軍を兼ね征夷大将軍に補せられた。これより田村麻呂は大いに陸奥出羽の経営に当り、陸奥国の官制を改め、また諸国の人民九千人を伊治城に移して守らしめ、有功の将士を賞し、帰服の蝦夷を優遇するとか、諸国の帰女を陸奥国に遣して養蚕を教習するなど大いに劃策する所があつたのである。ついで延暦二十年(八〇一)二月田村麻呂は節刀を賜わつて陸奥国に下り、四万の軍を以て再び蝦夷征伐に当り遂に本拠胆沢を攻略して全くこの方面の賊の勢力を掃蕩した。九月蝦夷討平を奏し、十月京都に凱旋した。翌二十一年二月、田村麻呂は勅により三度奥州に下り胆沢城を築き、ここに鎮守府を移した。これより多賀城には国府のみが残り、陸奥守がここにあつて陸奥国の行政に当ることとなつた。これよりこの方面も確実に我が律令国家の領域となつたのである。3陸奥の饑饉と海嘯102
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