女川町誌
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り、更に朝臣・宿禰になり、丸子部某・宗我部某と称した者が何々連となり、更に宿禰の姓を賜わつている。蝦夷の後と考えられる丸子島足の如きは牡鹿連の氏姓を賜わり、間もなく牡鹿宿禰となり、更に道島宿禰と改められ、神護景雲元年(七六七)には遂に陸奥大国造、その子道島宿禰三山は陸奥国造という姓を賜わつたのである。また一時に何十人と氏姓を賜わることもあつた。天平勝宝五年(七五三)には陸奥国牡鹿郡の人丸子牛麻呂・丸子豊島等二十四人が何れも牡鹿連の姓を賜わつている。そして新に氏姓を賜わる場合は、その土地の名を氏としたり、或は古来東国に関係の深い氏族の名を襲うので、牡鹿・伊治・柴田・遠田・宮城・または大伴・物部・阿部などの氏を称したのである。5奈良時代の女川地方牡鹿郡の初見は、前述の牡鹿郡人丸子牛麻呂等二十四人に牡鹿連の姓を賜わつたという記事のある天平勝宝五年のことで、従つて郡の建置は恐らくこの年以前、そして牡鹿柵等を設けた天平九年(七三七)以後のことと推定される。この頃女川地方の開拓が如何に進んでいたかは詳かでないが、当時を語る史話として尾浦の千葉大王と、御前浜の百済王敬福との伝説などが伝えられている。千葉大王の伝説に関し安永風土記には「尾浦は神亀年中天竺釈しゃく旦たん国千葉大王の王子が、空船に乗り当国に漂流し、右の舟が当浜に流れこの浦に寄つた。舟から御上りなられた故に、その節王浦と称したという。中古文字を改めて大浦と唱えたそうであるが、何時ごろからか当時の文字を改めたということである」と記している。この伝説については地名の由来「尾浦」及び伝説物語「尾浦御殿」の項に詳述しているのでここでは省略するが、その後裔と称する千葉氏が現に隣接雄勝町の大浜に居住して、その伝説等を伝えている。100

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