女川町誌
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模・武蔵・上総・常陸・上野・下野・出羽・越後の諸国から約九千人に及ぶ大量の移民が仙北方面になされている。次に国家として移民希望者を募集し、これに免租の特典を与えることがあつた。神護景雲二年(七六七)陸奥国管内及び他国百姓の中、伊治(栗原)・桃生方面に住まんことを願う者にはこれを許して免租を勅している。また天平宝字三年(七五九)には浮浪人を桃生柵戸として配置したが、逃亡してしまつたので、陸奥国司が国内の二百戸をここに移さんと請うた時、政府は「罪なき民、辺城の戍に配す、物情穏かならず、逃亡やむなし」といつて陸奥国の願を許されず、自ら桃生・伊治の二城に移住を願う者があればこれを安置し、免租を行うこととした。罪人が柵戸として陸奥に移されることも屢々あつた。4対夷及移民政策移民政策の実施と共に、一方に於て帰服の蝦夷をいかに統御し利用するかということが、当局者の最も意を注いだ所であつた。この場合にとられた政策がいわゆる以蝦制蝦策で、帰服熟化した蝦夷を優遇し、これを夷地経営の第一線に利用したのである。歴代蝦夷征伐実戦の功も実に彼等の力に負う所が大きかつた。かくて天皇制国家の政治的支配に服し、帰服の蝦夷の酋長にして進んで郡家の設置を請い調庸を輸せんとしたものも多かつたようである。先ず夷地に群を設置し、蝦夷を統治する場合は、その他の譜代の勢力家を郡司に任命し、その力を利用したことは勿論であつた。牡鹿郡大領道島大楯・遠田郡大領遠田公押人・栗原郡(上治郡)大領伊治公呰磨等の如きは、帰服の蝦夷の酋長で朝廷から氏姓を賜わり、郡司に任命されたものであつた。また郡司ばかりでなく蝦夷の部落内に於ても村長があり、これも蝦夷の中から任命されていたようである。更に帰服の蝦夷で氏姓を賜わつて内地人同等の待遇を受けたものが少くない。例えば吉弥候部の者が公の姓を賜わ99

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