女川町誌
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年(七三七)には遂に陸奥鎮守将軍大野東人による空前の壮挙を見るに至つた。即ちこの年、東人の奏言によつて朝廷は藤原麻呂を遺陸奥持節大使として多賀柵に派して東人と相議せしめ、常陸・上総・下総・武蔵・上野・下野等の騎兵一千人を派して陸奥・出羽両国の連絡をつけることとなつたのである。東人は先ず後顧の憂をなくすために帰服の蝦夷遠田郡領遠田君雄人を海道に派し、同じく帰服の蝦夷和我君計安塁を山道に遺して蝦夷を慰諭鎮撫せしめた。また特に勇健な者百九十六人を選抜して多賀柵を、副使の坂本宇頭麻佐をして玉造柵を、判官の大伴美濃麻呂をして新田柵を、陸奥大掾の日下部大麻呂をして牡鹿柵を鎮せしめた。当時の牡鹿柵は今の石巻市の日和山・鰐山の一円と見られている。当時の征夷は現地で農業を行いながら夷地を征服して行くもので、征夷は一つの植民であつたと見ることが出来る。更に注目すべきことは、帰服の蝦夷がかなり多数を以て征夷に参加していたことである。即ちこれは以夷制夷策で、陸奥経営の根本方策をなすものであつた。3東北地方の拓殖東北地方への移民拓殖の事はかなり古くからあつたに違いない。しかしそれが国策として取り上げられ盛になつたのは奈良時代に入つてからのことである。この移民には種々の場合があつた。先ず強制移民である。和銅七年(七一四)に尾張・上野・信濃・越後等の諸国民二百戸が出羽柵に移されて柵戸となり、その翌年には相模・上総・常陸・上野・下野・武蔵六か国の富民一千戸が陸奥国に配された。この後東北地方への移民は相ついで行われ、関東・北陸諸国から強制的に移住せしめられている。そして国家勢力の北進に伴い次第に奥地に移住せしめられ、宝亀七年(七七六)には陸奥諸郡の百姓を募つて更に奥郡(黒川郡以北)に移し、平安時代に入つて延暦十五年(七九六)には相98

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