女川町誌
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「東夷」とは大和の国から東の地方を蔑称したいい方で中国の中華思想を東北地方にあてはめたもの。日高見の国は北上川流域の地方国家のことで、肥沃な北上平野は、いらい日本武尊などがひきいる大和朝廷軍とそれを迎え撃つ「蝦夷」軍の戦場となつた。いわば宿禰の復奏にあつた「撃つて取るべし」の強硬な拓殖方針が「蝦夷賊首」島津神、国津神以下の反抗をまねいたわけである。しかし景行天皇二十七年いらいつづいた「東夷の反乱」は桓武天皇延暦十九年、将軍坂上田村麻呂によつてほとんど鎮圧された。この「蝦夷」とよばれた北上平野の住民が大和民族と民族的に同じか別かはいろいろ論議されている。異民族とすればアイヌ民族かどうか、また弥生式時代人や繩文時代人と民族的に同じか別かが文化の発達過程やローカル性の問題もふくめて論じられている。ともあれ当時の女川の住民がこんにちあるわれわれの生活に貴重な文化遺産をのこした事実は忘れられてはならないだろう。五、奈良時代の女川1陸奥国の設置大和文化に立ち後れた東北地方に於ては、前述の如く武内宿禰が東北諸国の地形や住民の生活状況を巡察し、その結果を次の様に復奏されている。前述のように「東国の蝦夷の中に日高見の国あり、その国男女共に椎結ついけつ文身、人となり勇悍、これを総て蝦夷という。また土地沃壌にして曠し、うちて取るべし」とある。日高見とは一般に北上の古名と見られ、日高見の国は今の北上川流域一円の広い地方で、当時は所謂蝦夷の地であつた。同四十年(一一〇)には日本武尊が勅名奉じて、東夷征伐のため日高見の国まで軍を進められた。桃生郡桃生町の太田には延喜式内社日高見神社が祀られ、天照大神・日本武尊・武内宿禰がその祭神となつている。その他本県内には日本武尊の御縁りを伝えている神社や遺蹟に富んでいる。96

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