女川町誌
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業技術者の墳墓たり得なかつた事情をあらわしているのであろう。しかし宏壮な墳墓を誇つた首長たちも、生前は粗末な家屋に住んでいたものらしい。茶臼山古墳(群馬県)の家形埴輪はにわは屋根に堅魚かつお木ぎをあげた切妻家屋をうつしているが、平地に居住するようになつていて、一般農民の竪穴住居、平地住居とさしてかわらない。田ノ畑で三十四年八月土木工事中に発見された住居址はすでに壊滅してしまつたが、中央に石で炉がしきられ天地根元造式に屋根をふいたらしく、繩文時代とほとんどかわらないようであつた。ただ堅魚木をあげる風習はやはり豪族・貴族だけのものであつたろう。古墳時代の生活を物語る遺跡としては、住居址のほかに窯業址・製塩址・製鉄址があげられる。窯業址は土師器や埴輪の製造所のほか、古墳時代後期から平安時代にかけて生産された須恵器の製造所の跡のことである。製塩址はその構造や製塩法はわからないが、田ノ畑から製塩用具と思われる無文素面赤色粗製土器が出土している。塩はその頃貴重品であつたといわれる。製鉄址は女川からまだ発見されていない。土器・埴輪・鉄具類の製作や塩の製造には、農民のほか専門の工業技術者が従事していたようであるが、こうしたひとびとは豪族・貴族階級の支配下にあつて貧しい生活をいとなんでいたことであろう。女川湾や万石浦沿岸に古墳がないところをみると、そのころの女川の住民たちもまた、ほとんどが被支配階級に属していた一般農漁民であつたのかも知れない。ところで、古墳時代の女川のひとたちはどのような民族であり、「大和民族」とどのような関係にあつたろうか。日本書記によれば、景行天皇二十七年、武内宿禰が東方の諸国を視察して次のように復奏している。「東夷のなかに日高ひたか見みの国があつて、その国の人はみな「さいづち」型に髪をゆい、からだに入墨をしている。人となりはみな勇悍で、この人たちを蝦夷という・また土地はよく肥えていて広大だから撃つて取るべし。」 95
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