女川町誌
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には貝塚や狩猟漁撈につかつた用具がみられないので、なにか農業栽培がおこなわれていたかも知れない。穀物を蒸す甑こしきに似た土師器片や製塩用具も出土しているので、黒島や唐松山下とは別の生活がおこなわれていたということができるだろう。大石原の沖積低地にある長者ノ浜遺跡にはその徴候がよりはつきりみとめられるようである。一般に、古墳時代になつてからの農耕地域の拡大には、鉄製農具類が多量につくられるようになつたことや農業・土木技術が進歩したことが力あづかつたと思われる。また、この時代にあらわれた支配階級が農業生産の振興を図つたことも想像される。弥生式時代いらいの農業生活で農作物の個人所得差が生れ、農事管理やムラの統率にあある豪族・貴族階級が成立したことはこの時代の特徴であるが、その支配者たちが農産物の蓄積に政治的な意義をみとめていたと思われるわけである。そうした社会背景に立つて神権的な威儀を高め、ほかの地縁社会との統合を図り、政治的支配権や経済与奪権をにぎつた支配者たちが、墳墓という非実用的なものの造営のために多数の農民を動員したことは容易に想像されることだろう。古墳は西日本で発生した当初呪術的色彩がつよく、墳墓的性格をもつていたといわれる。だが墳形や内部の石室構造が次第にかわつていつて、高塚式古墳そのものが、被葬者とその一族の権勢を象徴するようになつたものとみられる。中期古墳にあたる応神天皇陵や仁徳天皇陵などは、地方首長をおさめて絶対的な国家体制をきずいた大和朝廷の力を誇示するものであつたろう。東北一の規模をもつ雷神山古墳(名取市)やそれに次ぐ遠見塚古墳(仙台市)なども、朝廷支配下の地方首長が、地方首長とその権威をあらわすために大和の風習をまねたものと思われる。古墳は末期近くになると横穴古墳へと一応大衆化され、東北ではだいだい七世紀ごろ終息するようになるが、鹿妻洞窟古墳(石巻市)に副葬されていた金冠や県下の横穴古墳にみられる金銅装太刀、匂玉などは、古墳が結局、一般農民や工94

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