女川町誌
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て、農業経済を基礎とした階級社会が成立しはじめていたのである。四、古墳時代の女川古墳時代というのは、古代日本の支配階級が墳墓を造営した時代のことで、弥生式時代につづき、だいたい奈良朝文武天皇火葬令が公布されて終了する。時代名が土器によらないで「古墳」という墳墓に由来しているのは、前方後円墳や円墳など高塚たかづか式古墳の墳丘や副葬品が、特にいちじるしい時代相をあらわしているからである。女川では古墳の発見例はまだないが、古墳時代につかわれた土師はじ器や須恵すえ器が、黒島・宮ヶ崎田ノ畑・唐松山下・大石原の四か所から出土している。土師器というのは、弥生式土器から移りかわつた赤褐色の素焼無文土器であるが、女川にみられる土師器は、東北一般の例にもれず畿内的な土器文化の支配下にあつて、東北地方弥生式の伝統がみとめられないといわれている。古墳時代もさがつて奈良朝末期ごろになると、中国の陶すえ師高貴が伝えたという須恵器が庶民生活のなかにも普及するようになり、唐松山下・大石原などのように土師器と併用されるに至つている。黒島貝塚から発見された土師器は、南小泉式という古い土師器で、だいたい高塚式古墳が県下ではじめてきずかれた時期をしめすものとされている。こうした古式土師器があらわれたことは、また弥生式時代に農業がまだ一般化しなかつた県北平野でも、古墳時代になつてようやく農業生活がひろまつたことを物語つている。古川市塚ノ目も小牛田町彫堂出土の古式土師器に稲モミの圧痕がのこつているのがその証拠である。だが黒島のばあい、漁撈生活が営々とつづけられていたことは万石浦沿岸のほかの同期遺跡と同様で、唐松山下のように奈良朝末期に下つてもなお貝塚がつくられていたところもみられるのである。宮ヶ崎から出た土師器は黒島貝塚から少しあたらしい古墳時代土師器(第四形式)であるといわれるが、この遺跡93

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