女川町誌
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いる。ただ、宮城県など東北の弥生式土器にはまだ繩文晩期の土器文様の伝統がのこつていて、壺やカメ・高坏たかつきなどに繩目文様やすり消繩文がついているものがある。田ノ畑遺跡から出た完形の壺(口絵参照)は東北地方でもつとも古い弥生式土器(棚倉式)であるが、その土器にも繩文晩期に多いすり消繩文が発達しており、器腹に繩文の帯が太い沈線文でかこまれて波状にめぐらされている。おなじ田ノ畑の弥生式土器(桝形囲式)や黒島の土器(十三塚式)にも、刻線でえがかれた幾何学文様と繩文とがあわせてもちいられているのである。こうしたことはまた女川に住んでいた弥生式時代のひとびとが、繩文時代のひとびとと民族的に同じだということを意味するのかも知れない。弥生式時代は、大陸文化の影響ではじめて紡織機と金属器をつかつた時代であつた。金属器の材料は青銅と鉄で、青銅は銅鐸どうたく・銅どう矛ぼこ・銅剣など主に祭祀や武器のためにもちいられ、鉄はスキ・クワの刃先、ヤリガンナ・斧など農工具に多くつかわれていた。いずれの金属器も貴重品であつたようで、この時代でも石製のクワ・包丁・鎌・やじり・斧などが併用されていた。金属器がつかわれたり農耕がさかんな地方は北九州・畿内・東海道などであるが、そうした弥生式文化の隆盛な地方ではすでに部落国家が群をなしてい92 田ノ畑の土器文様

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