女川町誌
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器が出土しているだけなのである。弥生式時代の農作物といえば、コメのほかヒョータン・マクワウリ・ムギ・ヒエ・マメなどで農法も幼稚だつたようだから、黒島の住民にとつては魚貝類や鳥類の肉は欠かせない食糧資源であつたものだろう。一般に、仙台から北の東北地方には弥生式土器のでる遺跡がすくなくて、特に牡鹿半島では田ノ畑・黒島・一本杉(石巻市渡波)・給分(牡鹿町大原)とかぞえるほどしかない。宮城県史古代篇によると、稲穂を摘むのに必要な石庖丁などの農具類も、古川での発見例が北日本の北限であろうといわれている。弥生式の水稲栽培は、湖沼や河流のほとりなど自然の低湿地を利用してモミをじかに播くのがふつうで、登呂のように大きな灌漑排水の設備をもつた水田はまれであつたから、弥生式の水田農法が北上川流域の風土を克服することは困難だつたものといえるだろう。だが田ノ畑や給分では、水田農業でなくてもなにか農作物が栽培されていたかもしれない。弥生式の土器時代に、田ノ畑や黒島の住民がどのように生活していたかくわしいことはわからない。そのころの住居は竪穴たてあな住居や平地住居がふつうで、田ノ畑にあつた古墳時代の住居址ですらそうであつたから繩文時代とあまりかわらなかつただろうと思われる。ただ仙台の南小泉や藤田新田では、繩文時代に海底だつた沖積平野に住居が群集していて、田畑の耕作に便利なように集落むらが形成されていたといわれる。田ノ畑や黒島のばあいは、繩文時代とかわらない自然環境に住居をかまえていたといえるようである。弥生式土器が、繩文土器といちじるしい対称をしめしていることはよく云われることである。繩文土器にみられた複雑な器形や怪異な装飾がなくなつて、簡素でよく洗練されたかたちの土器には、クシ目文・同心円文・連弧文など繊細で美しい幾何学模様がえがかれている。土器の色合いも、酸化鉄をふくんであかるい赤褐色や黄褐色をしめして91 1
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