女川町誌
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四十箇の骨角製品が発見されているが、そのほとんどが鹿の角でつくられた固定銛と離頭銛で占められている。固定銛には二本か三本をたばねてヤスのようにつかわれたものがみとめられる。離頭銛というのは、魚の体内に射込まれると柄からはずれた茎が廻転して抜けなくなり、容易に捕獲できるように考案された銛のことである。(口絵参照)この離頭銛は尾田峰とか沼津(稲井村)など東北地方の繩文後期・晩期の貝塚には特に多い漁具で、関東以西ではほとんど発見されていないといわれるものである。漁撈用具にはほかに石錘・土錘などがあり尾田峰貝塚から発見されている。そのころ魚網やイケスがつかわれていたことであろうし、独木舟が漁撈にもちいられたことも想像される。狩猟には弓矢がつかわれていて、内山遺跡にみられるさまざまな形の石せき鏃ぞく(やじり)は、弓矢のつかい分けが複雑であつたことを思わせる。(口絵参照)内山遺跡には貝塚がなく捕獲動物の遺存はわずかであるが、望郷山麓のひろい海岸台地が狩猟中心の生活拠点にえらばれたことは容易に想像されるだろう。弓矢の道具には石鏃のほかに骨でつくつたものや矢や筈はず・弓ゆ筈はずなどがあつたようで、尾田峰貝塚から発見されている。尾田峰の矢筈には、矢柄に密着するように差込みの部分に天然アスファルトが塗つてあつて、油田地帯との交易があつたことを思わせる。(口絵参照)弓や矢柄そのものは木製だつたためか、青森県是川などのような低湿遺跡のほかからは発見されていない。浦宿門前から珪石でつくられた柳葉薄肉の石槍が拾得されているが、これもまた狩猟用具のひとつであつたろう。繩文時代の食用植物は野生の植物にかぎられていた。東北大学伊東信雄教授の宮城県史古代篇によると、繩文後期の宝ヶ峰遺跡(河南町)からクルミ・クリ・ハンなどの果殻や種子が発見されているが、栽培植物はみられなかつたといわれる。繩文時代の遺跡には、全国どこにも農作を証明する遺物が発見されていないから、このころは採集経済83

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