女川町誌
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いない。宮ヶ崎の田ノ畑で三十四年八月土木工事の際古墳時代の住居址が発見されたが、すでに壊滅してしまつていた。遺跡にはそのほか洞窟遺跡・古墳・寺址などいろいろあるが、女川ではみあたらないので記すことができない。女川の遺跡は田ノ畑・黒島・唐松山下のような複合遺跡をそれぞれ一遺跡とかぞえて二十七か所ある。年代別にみると、繩文早期(上川名式)、前期(大木5・6)、中期(大木7・8・9・10各式)、後期(加曾利E・堀ノ内・加曾利B・安行Ⅰ・Ⅱ各式)、晩期(大洞B・BC・C1・A各式)、弥生式(棚倉・桝形囲・十三塚各式)、古墳時代(南小泉・第四形式)、奈良朝期(第七形式)にあたる遺跡がみられる。なお、近年群馬県岩宿はじめ全国各地で繩文文化以前の古い石器文化が発見されている。この石器文化はプレ繩文文化または無土器文化とよばれる旧石器文化であるが、町内ではまだ発見されていない。したがつて「女川の歴史」は繩文式石器時代早期からはじまるものとみなしてよいであろう。二、繩文時代の女川繩文時代とは繩文土器がつくられ、生活用具としてつかわれた時代をいう。この時代は新石器時代といつてもまだ農業や牧畜がはじまらず、ひとびとの生活は狩猟や漁撈・植物採集の生活であつた。女川の貝塚にのこつている繩文時代の採集食糧は貝類や獣・魚類であることが知られている。貝類は海水産のものが多く、マガキ・イタボガキ・アサリ・ハマグリ・アカニシ・シオフキ・カガミガイ・アカガイなどで占められ、まれには尾田峰貝塚のばあいのように淡水産のシジミがふくまれることもあつた。また貝殻にまじつて発見される獣骨にはイノシシ・シカ・タヌキ・キツネ・クマなどがあるといわれ、魚骨ではマグロ・サバ・タイ・スズキ・ニシンなどがあげられている。漁獲には釣針や銛もりや錘おもりなどがつかわれ、ほとんどが動物の四肢骨や鹿の角でつくられた。尾田峰貝塚からはおよそ82

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