女川町誌
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第二章歴史的考察第一節古代の女川一、女川の遺跡概観ここでいう古代とは、新石器時代から歴史時代初期ごろまでのことで、繩じよう文もん時代・弥生やよい式時代・古墳時代・奈良及び平安時代を指している。遺跡というのは貝塚とか遺物包含地とか洞窟・古墳など、古代民族の生活のしるしを示す場所を名づけている。貝塚は主に石器時代人が食べた魚・獣・貝類の残物や、いらなくなつた生活用品などのゴミ捨場である。貝塚がつくられる地域は貝類のとれる海岸や湖沼附近にかぎられている。女川の貝塚は、繩文時代のものだけでなく弥生式時代から奈良朝末期ごろまでにわたつているが、いずれも海水産の貝殻できずかれ、こんにちの海岸から高く離れた陸地で発見されているので、女川湾・御前湾・万石浦がそのころ陸地ふかく湾入していたことが知られる。女川の陸地も時代によつて高位の変動があつた。尾浦浜に貝塚がきずかれた繩文前期ごろから海蝕がはじまつて、屋敷浜貝塚(石巻市渡波町)がつくられる中期ごろには現海抜二十メートル以下の陸地は海中に沈んでいた。繩文中期は女川の海岸線がもつとも複雑だつた時代で、万石浦は石巻湾にひろく湾口をひらき、女川湾は万石浦東岸に接して牡鹿半島を切り離すばかりの地形だつたと思われる。その後地盤は隆起するようになり、尾田峰貝塚がきずかれる繩文後期、晩期ごろには、海面も二、三メートル以下の陸地を浸蝕している程度となつた。万石浦がこんにちのように砂州で湾79

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