女川町誌
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リンゴ箱二十六箇という夥量である。四、女川町の貝塚と尾田峰囲貝塚の特異性女川町自体は、地形的には女川湾と万石浦の二つの湾入により地峡部をもっているが、当町内で発見された二十一の石器時代遺跡の多くは、この二つの湾入に沿って発見されている。その中でも、出島四名子館包含地、尾浦貝塚・日蕨遺跡、浦宿(尾田峰囲)貝塚・猪落貝塚等は比較的以前から知られていたが、いずれも遺跡の規模が小さく、貝層の貧弱な、或いは欠除する遺物包含層的な貝塚であり、島嶼の多い沈降海岸に営まれた貝塚群の特徴を遺憾なく発揮している。牡鹿半島を含む三陸海岸に分布する貝塚を総括して三陸海岸段丘貝塚群としているが、ここでも指摘しているように、浦宿貝塚(尾田峰囲)は、この群の中にあって特異な存在である。照源寺に所蔵されているこの貝塚出土の遺物からも頷けるように、この遺跡からだけ、後期から晩期へ、連続する数型式を出土し、自然遺物の中に淡水産の貝が見られる等、単一遺跡の多い周辺貝塚中、特筆すべき貝塚といわねばならない。このことは、この貝塚の営まれたこの時期になって、比較的長期に互って石器時代の生活を許す自然環境が整えられたことを意味するものであり、三陸リアス式海岸の一環として、大きく湾口を開いていた万石浦が、付近の有名な沼津貝塚を含む稲井湾入と同様、北上川の沖積作用により、繩文式文化後期から晩期に渉って、徐々に浦が形成され始めたことを物語っている。右の浦宿尾田峰囲貝塚の調査概報は、東北大学講師宮城学院女子短期大学助教授加藤孝氏並に渡波小学校教諭阿部敏郎氏により取り纒められ、特に本町誌の編纂に寄せられた貴重な文献であるので、本誌の追録として掲載させて頂くことにした。ここに右両氏及び発掘調査等に当られた各位に対し衷心より敬意を表して止まぬ次第である。991 991

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