女川町誌
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につれて判然してきた。ここは重複する住居跡と貝塚の複合遺跡であったわけである。特にトレンチの南半は層序の識別が困難であったわけは、住居跡構築の際攪乱されたことにも原因するのであろう。このような事情から、トレンチ南半では、遺物を包含する面を求めて深めた所、表土下約一米の地点に、大洞C式土器を出土する層に達したので、それを拡大したところ、作業終了時近く、台付皿形土器を含む一括土器と並んで、中空の大型土偶の出土を見た。腰部の幅が二十三?糎あり、本邦出土最大の大型の土偶であるが、上半身が欠深しているのは惜しい。しかし、正式の学術調査中に出土したこの種土偶の例義は大きい。十一月二十四日、先に灰層を確認したトレンチの北半では、更に居住跡の範囲を追い、その全貌を明きらかにすることは、限られた調査時日では不可能であるので、最初の目的遂行のために、住居跡面を更に下げ、その下の層序に従って遺物を求めることにした。灰層を剝離し乍ら層序に注意して調査を進めたが、この下に存在する貝層は薄く山よりの北壁面近くでは十五糎程で地山に突き当り、今次の調査も終りに近づいた。灰層下の遺物は、それでも一型式前の大洞B式に変化し、所謂関東地方安行Ⅱ式との中間型式の問題を解決する資料が得られそうであり、今後の整理が期待されている。午後、トレンチの南北両端から整理を開始全面を剝離したところ、鮪脊椎骨が二尾分、鯨骨と思われる残滓が、他の小動物骨片や鳥骨片と混じって、累々と出土していることは、漁港女川を見ているようであり、興味があった。十一月二十五日雨天十一月二十六日、実測作業、出土遺物の梱包作業記録された遺物は約三五〇点、完形な形で復元できる土器は約二〇点、骨角器・石器は約五〇点、土器破片の量は990

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