女川町誌
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れなかつたそうだ。後に公園の鹿だからと言つたらやめたとか。昭和二十三年以来女川町が、金華山観光を最短距離を看板に足島の海猫も加えて宣伝に努めた結果、昭和三十二、三年は六万を越える観光客が女川港を通過するが、皆鹿を見られないと残念がる。 以上は米軍からの被害方面であるが、次は恩恵に浴した方面である。昭和二十一年二月六日江島に発疹チフス疑似症患者十五名発生した。同二十七日聯合軍々医官は、部下二名を伴い県衛生課長と来町し、同日午前九時半渡島午後六時帰場し、持参の食事をすまし同七時頃帰つて行つた。この時発疹チフスと決定しその消毒法及消毒器具の取扱と、更に発疹チフスに関する諸注意があつた。その後陸地の方に発疹チフス発生し、浦宿の兵舎送信所を隔離病舎として収容してあつたが、女川町に於ては始めてDDTなる消毒剤を米軍によつて教えられ、環境衛生が今日の発展を見るようになつたのである。 惟うに戦時に於ける残虐は古今東西或程度まで共通で、日本軍にも自己反省の要あつたことを伝え聞いて居る。しかし長崎や広島に対する米軍の原爆による非戦闘員大虐殺は歴史あつて以来の出来事であろう。 二一、バチスカーフ FNRS 三号 朝日新聞の好意によつて日本海溝の調査が日仏協力のもとに行われることになり、世界唯一つのバチスカーフFNRS三号が女川港を根拠地として行いたいと、昭和三十三年五月七日左記の人々が女川町長を訪ね、町長は快諾すると共に本町経由知事宛に港湾及び岸壁使用願を提出させることにした。 東京水産大学教授 熊凝武晴東京水産大学教授理学博士 佐々木忠義東京水産大学神鷹丸船長技官 小沢敬次郎宮城県水産試験場長鈴木正助宮城県水産商工部水産課技師 小林基八何故女川港を選定したか、 一、水深干潮面七米以上の岸壁あること 二、水深及設備に於て出入港安全容易なること 三、日本海溝に最も近きこと(一〇〇海哩) 四、繋留地が風浪の憂なきこと 五、陸上交通便利なること 女川港の旅館に宿泊する人々 一、仏国人六名 二、朝日新聞社六名 三、日本学者十数名 四、各新聞報道陣十数名 五、ラジオ・テレビ・映画陣十数名 (報道参考資料) バチスカーフによる日本海溝調査 一九五八・五・一四 バチスカーフ委員会 四千メートルの深海にもぐれるフランス海軍御自慢の深海潜水艇バチスカーフ号を使い、世界で最も深い海の一つといわれる日本海溝のナゾを解く日仏合同の潜水調査がいよいよ六月か981 981

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