女川町誌
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度には甚しい反感を抱いたが、どんな団結力があるかわからない悲しさに誰も反抗するような事はなかつた。警部補派出所でさえ十六人も組んで抗議を申込まれ、手に餘したこともあつたそうだから、その威張り方と町民の反感は想像に餘るものがある。しかし米軍の進駐もあつたのでこの威張る期間も一か月あるなしであつた。殊に他地方の鮮人が来たわけでもなく、昨日まで隣組とか部落会員として暮して来ただけに、個々の家々としては別段被害はなく、思想傾向から見ても女川居住者は皆穏健な人々で、中には神農(春田)一家の如く昭和三十年帰化の許可を受けた者さえある。 次に書くべきものは米国軍人の態度である。寺間前で飛行機を落され二十年八月九日捕虜になつた飛行中尉は、仙台憲兵隊に送つたが、別段のことはなかつた。終戦直後米国の艦艇が数隻寺間前に投錨し、米国旗をひるがえしたモーターが前後に機銃いかめしく武装して港内を二周し、石浜の防備隊兵舎に行つて米国旗を立てた。町民には何んとも言様のないなさけなさが感じられた。約一週間にして日本の官憲が、この兵舎を管理することとなり、銃砲弾等を海中に投棄などした。五部浦の特殊潜航艇の根拠爆破なども行われた。最初接収に来た米兵が抵抗のないことを知るや、二人組んで一廊の丙種料理店に女を求めて行き、家族を叱つたり子供をなぐつたり、さてはピストルを以て威嚇したそうだ。この事実が町内に伝わるや、若い娘のある家庭は勿論、若い婦人の脅威甚しく、十月八日町議の協議会を開き、進駐軍も近く来るであろうから、斯様な事態多くなるであろうと部落会を通じて各家庭に警告をし、各自警戒せしめることにした。反面一廊の業者代表を招ぎ、補助金一万円を出し、又一廓を修理してやり、進駐軍の取扱については然るべくと申入れた。一廊に来た米軍で乱暴をした者は初期の頃二十人位もあつたか、次第に憲兵隊の手も届き誠に穏やかになり、仙台・矢本等の進駐地から女遊びに来た者が、延人員で前後二百人位はあつたらしい。 尾浦の鈴木良治郎氏が、昭和二十一年仙台市の郊外に近い方で目撃したという話によると、四、五才の子供を連れ二才位の子供をおんぶして来た婦人があつた。米軍人の乗つたジープが来たのを知つたらしく(当時ジープは米軍人のみが用いた)道路からわざわざ畑の中へ逃避した。すると其のジープは畑の中に乗り入れた。おどすのかな妙だなと思うや否や、そのジープは婦人とおんぶした子供とを引き殺して、何所かへ走つて行つてしまつた。いろいろの噂は聞いたが現実に見たのはこれであつたと話してくれた。 その他石巻地区には、噂として若い婦人の凌辱事件、酔つぱらつての乱暴など随分あつたようではあつたが、幸女川には進駐軍が居ない為めか、被害者という程のことはなかつた。最近(昭和三十三年)米軍の被害に「国家賠償」の必要があると政界で世論が高まつているが、これは当時のことから最近の問題までも加えて少なからざる被害者がある模様である。 汽車の中から禁猟区である松島湾や、万石浦の鴨を打つたのは多くの人々が目撃していた所であるが、金華山の人狎れた鹿を片ッ端から撃ち捕られたのは、観光上大なる被害である。社務所では神社の鹿であるからと、中止方を要請したが、聞きい980 980

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