女川町誌
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生れたが、最初の団長として新町議会議員鈴木養吉氏が据えられた。鈴木氏は石巻商業学校を卒業し、運動家としては柔道三段、徒競走では短距離中距離の第一人者でもあり、町議に当選した程の社会的地位もある人物である。而して昭和二十三年から三年に亘り、三回のみくに奉仕団を組議して奉仕したことは、如何に戦後混迷時代の青年に灯明をかかげてくれたものかと、寂びしくながめて居た混迷時代の実情を知つてる一人として感謝にたえない。 第一回 昭和二十三年四月 男女計五十五名 団長鈴木養吉 副団長 木村公二 平塚 武 田中とみ子 第二回 昭和二十四年四月 男女計三十名 団長(青年団副団長)木村公二 副団長 (青年団幹事)木村営一郎 木村静子 第三回 昭和二十五年四月 男女計四十名 団長鈴木養吉 副団長 (青年団副団長)志摩喜代子 (青年団幹事)高橋忠太郎 然るに女川町婦人会も是非宮中に清掃奉仕をしなければならぬと、その議が勃然と起り、秋保会長はこれを率いて二回も行つて来られた。 第一回 昭和二十六年四月 会員六十名 団長 秋保ゆき 指導員 北村卯太郎 第二回 昭和三十二年四月 会員五十名 団長秋保ゆき 指導員 北村卯太郎 以上女川町から五回に亘つて、国民の至情を宮中にさゝげて来たが、始めの頃は交通不便であり、左翼思想が強かつたなやみがあつた。しかしこの運動が当時より昨三十二年に至つても続けられ、今日まで全国より何十万人が奉仕しているのである。(追補 三十五年五月婦人会) 一九、五部浦湾カキ大養殖場計画と港湾 昭和十九年一月十日東北協議会長宮城県知事内田信也氏が「須田町長土産を持つて来たぞ」と云つて本町に来られた。それはかねて一市三町村より請願中の宮電が国有になつたことであつた、 (詳細鉄道史参照)随行者は官房長・会計課長・秘書・石巻警察署長・地方事務所長等であつたが、先づ防備隊を訪問して敬意を表し、湾内を視察して五部浦まで行つた。当時既に戦争激烈敵潜水艦の出没により遠洋漁業は勿論近海漁業すら不可能の頃であるから、国民蛋白給源として五部浦の鳥島まで防波堤を築造したならば、内湾は最もよいカキの大養殖場となるということに着眼せられたのである。次の女川町役場の公文書を見るに 昭和十九年六月二十三日 書記木村敬止復命書依命昭和十九年六月二十三日塚浜鳥島間防波堤工事測量の為め来町の県水産課佐藤技手外一名と町長・石森助役・女川郵便局長・町会議員木村上殿と、同行塚浜部落会塚浜漁業協同組合長町会議員木村要助殿と阿部佐右太殿宅に於て会見本測量に関し 978 978
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