女川町誌
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寺の上と下の山、竹浦・桐ケ崎方面など約十か所に塔を建てて、敵機の空襲を予知しようとしたのである。支隊は八ノ戸と石巻の牧山にも置かれ、本隊は福島県富岡(常盤線)にあつて絶えず無電で連絡した。従つて女川の隊員は最初は富岡から派遣され、後第二師団(仙台)の配下に属して仙台師団兵と交代したが、当地出身軍人は居なかつたようである。八月九日・十日の女川地区空襲には、如何なる活動をしたか地方民には全く不明であつた。遺跡としてコンクリート土台が今尚山中にある。 一六、特殊潜航艇隊 女川湾は水深く上陸作戦が行われるかも知れないという風評は随分高かつた。昭和二十年八月十三日の夜は石浜を中心として防備して居た海軍防備隊から「敵艦隊北上したそうであるから近く艦砲射撃あるか、上陸作戦のおそれある故退避せよ」と命令が出て急遽稲井村又は内陸さして夜通し逃げた程である。斯様な女川湾である故五部浦の奥の野々浜と飯子の山合に特殊潜航艇隊が駐屯した。こゝから西に山道を開鑿して荻浜に通じ仙台湾の方も警戒したらしいが潜航艇の基地は五部浦だけらしかつた。山の杉林の間に兵舎を建て、山の断涯の海面近く防空壕を掘つて兵士も入り、潜航艇も入れた。潜航艇は直径約五十センチ長約七米位もありそうな砲弾形のもの二本つけた艇に、特行隊員二名乗つて潜航し、敵艦に突き当つて散華するものであるということであつた。然るに濃霧数日続いてる間に終戦の詔書が下つて、上陸作戦は行われなかつたが、それでも一将校が敵艦に突入せねばならないと、執拗に頑張つて困りきつたという話を嵐部隊長から聞かされて、いたく心を打たれてあつた。翌日乞うて一の鳥居近くまで艇三隻かを出動させ浮きて兵隊が姿を見せたり沈んで見せたりしてもらつたものである。この部隊は流石に全く空襲に見舞われることなく、皆無事であつたが、米兵が来て一切破壊させられた。しかし本造兵舎は学校として嵐部隊長から貰いうけそのまゝ五部浦校新築まで使つた。 一七、爆沈したる艦船引揚 昭和二十一年三月四日 書記 木村敬止 運輸技師西海芳郎宛(塩釜勤務) 女川港沈船掃海請願書に関する件 標記の件に関しては種々御厚配を蒙り有難御礼申上候、別紙の通り請願書二部作製御送付申上候間、何卒可然御配意被成下急速実現相成様、格別の御援助賜度重ねて御願申上候 昭和二十一年三月四日 塩釜市外笠神 運輸省仙塩工業港工事務所長 運輸技師 西海芳郎 女川町長 須田金太郎 殿謹啓 餘寒厳しき候益々御清適の段奉賀候 陳者豫而御配慮相煩し居候女川港沈船処理の件に付、先般の打合の通り横浜市運輸省第二港湾建設部及東京都運輸省港湾局に 974 974

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