女川町誌
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という人の美談である。 海鳥糞土と阿部丑次郎氏 大戦中農家は燐酸肥料に窮迫した、これを見た宮城県農会と女川町はこの足島の海鳥の糞が多年土にしみこんだことに着眼し、分析の結果燐酸が三%以上あることに確信を得、浜々の漁業会を説いて承諾させ昭和二十年七月事業主体は県農会、現地責任者は須田町長、実務担当者相沢主事、江島の世話役は木村漁業会長、しかして県増産課は各種の助成を与えると決定して陣容は出来たが、米国潜水艦の襲撃を受けた漁船が江島沿海にしばしばあるので実施できず、機会を待つていたら八月十五日終戦となつたので、その月の三十日から農村の採掘隊が続々入り込んで多い時は足島の宿舎に八十名を超えることもあつた、足島には倉庫五十坪、炊事場十二坪、宿舎五十坪トロ四台、線路二百米、大スベリ台一、桟橋一基を設置し二十二年春、赤燐礦石輸入開始まで十万俵の糞土を送つた。 二十一年の九月は十五日ころから風波強く海上荒れて江宝丸は五日間休航し、漁船は一週間も休み、足島と江島及び女川との連絡は一週間も絶ち、名取郡の採掘隊と常雇人等計三十名は米食を絶つこと三日に達し、今や不安と飢とに前途がくらくなつた、ここに常雇の一人に日本大学出身陸軍中尉石巻市村境の阿部丑治郎君という北上川の川口で腕を鍛えた水泳の達人がいた(註常雇人は五名共インテリ)この様にたまりかね奮然江島への連絡を引受けた在島者一同は米袋の底をたたいてわずかに一合足らずの米を集め、かゆを煮て腹ごしらえをし二キロの彼方を目ざし、漁船一隻も出ない荒波に挺身飛び込んだその意気たるや賞すべくして寧ろ無謀のそしりを受くべきものであつた在島一同は感謝と不安のまなざしを以て波間に見えつ隠れつする彼の勇姿を見つめていたが、中程にて遂に姿は見えなくなつた、一同後悔もし側隠の情にたえぬものがあつた、一方阿部氏は曰く、中ころまで泳いで来たら急に東に流れるようになり、近眼の私が江島のきしべがハッキリ目前に見られるようになつた時は、波と戦いぬいて腹は空き心身共に疲労しきつた時である、而かもそのきしべたるや断崖絶壁すさまじい形相で怒濤が逆巻きとても寄りつけるものではない、足島に戻ろうか後方を振りかへると自分は東に流れたので戻りつく見込みがない、絶対絶命という所に追いつめられている。怒濤が逆巻いて考へている時間すら与へられない所まで差し迫つてしまつたのだ、斯くなる以上はとすべてを天運にまかせ斜面のありそうな岩を選び怒濤に乗り辷りこみをやつてみた、すると岸に取りつくことが出来たと思つたのもつかの間ですさまじく深淵に巻き込まれグルグルと数回回転したか海水を飲んで漸く浮き上つた、ガッカリしたが一息ついてまたやつた、何んと懲り性のない男だといわれたつて仕方がない、果して前にもましてやられた、再び浮び上つた時に精神が朦朧となりどうするという考も浮ばない死は間近に迫つたことを自覚した、しかし小舟一隻、人一人見えるでもない賴むものは神様だけである。この時は真に心から神様にお祈りをいたし、波の間に間に自然のままほとんど無意識に第三回目の辷り込みが行はれた、すると波が引き去つても自分はその岩の上に取残されてあることに気づいた、そしてハット正気づいた「これは神助だ」と喜び気力をはげまし断崖を972 972

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