女川町誌
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糞土の効果については大いに賞讃の辞も来れば、殆ど無効だという苦情も来たものである。 この頃はどんな物資も急迫したが最も困つたのは食糧と衣料であつた。仙北の或村から来た採掘隊が丸竹に渡島前夜一泊した。出発したあとに女中が行つて見たら枕かけの白布が殆どない。協力会で調査したら紛失したという半分位は出て来た。彼等の目的は汗拭きにするつもりであつたのだ。又食糧の急迫は江島周辺の島々に産卵した卵は江島の人々に殆ど採られるので足島にと海猫は集つた。ところが糞土採掘隊が入り込むや、終戦後であるから江島からも来れば採掘隊員も我先にと採る悉く採つて二十一年と二十二年の夏は殆ど雛は生れない。海猫にとつてはこんな受難時代はなかつたと思うが、相変らず数万群棲して減つた模様はない。 又この事業は一時非常な盛況で県下各町村殆ど来ない所はなく二回位来た所もある。戦争中運搬船の激減時代であるから、始めは女川陸揚賃までで一俵八十銭であつたのがやがて一円となり、一般海上運賃を高めたと抗議して来た業者もあつたが、非常時公共事業であるからとそのまゝやり通した程で、駅からの出荷は仙鉄局を驚かし視察官まで来た程であつた。しかし二十二年春になると燐鉱石輸入が開始され、事業の前途は急ピッチに下り五月三十日県及び県農の人々と解散式を挙げたのである。総供出十万俵に達し而かも一人の事故者もなく終つたことは嬉しい。当時町長須田金太郎氏は既に職を辞して海島糞土協力会長として専念し、本事業の結末に苦辛した結果、県農業会にねばり強く交渉して、女川及び足島の建築物を全部貰い受け之を売却して江島の関係者、各漁業会の幹部は勿論専任職員にも夫々慰労金を呈し十二月十七日庄司新蔵氏邸に於いて、不満なき協力会解散会を行つたのである。流石に政治家である。又本事業の専任職員たりし若き人々は昨年より解散の時までに全員役場職員として汲収して貰つたことは主任たりし筆者の当局に対し感激にたえない所である。 次に本事業の副産物としての収穫を二、三挙げて見よう。江島は米一粒も出来ない所で、配給以外の米を求めて農村に行くことは大きい仕事である。然るに事業の始めに民家に分宿した人々と知合になつたこと、その後足島で知合になつたこと、こゝで米と海藻などの交換したこと、これ等が江島をうるおしたことは少くないようであつた。次は筆者がこの島に入り浸つて居る間に、海猫と善知鳥の生態がわかり、加えて千古の波に洗われたこの島の大景観をよく知ることが出来て、後年県立公園牡鹿半島の公園たる資源が金華山に決して譲らない江島列島を 宣伝する根元をなしたことである。次に善知鳥によく似た赤❍足❍(地方名)という水島が極めて小数岩の間になど営巣すること岩つばめが営巣して数百羽位群り飛ぶこと、蚊は多く、小型の野ねずみが居ること、蛇は全く居ないことなどがわかつた。植物は椿・榊・柾木・いたどり・よもぎ・かや等が目立ち、海岸につるなが野生しているのが珍らしい。又おにやぶそてつというしだが冬も枯れないで生いてるのも陸地では見られらいようである。 最後に島に咲いた美しい物語を附記する。それは常時足島に泊つて職業として採掘に従事した五人の中の一人、石巻市西村境の出身日大を出て一年志願従軍した前陸軍中尉阿部丑治郎君971 971

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