女川町誌
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であるから甚しく弱体化すべき状勢にはあつたのであるが、占領軍の指揮下にある政府であるという圧力感が手伝つて、どうやら町政がこの機関によつて部落に大体徹したわけである。 昭和廿六年から女川町は区長という名称と任命とを復活したが、以前の区長は議会に於て選挙され議員につぐ名誉を荷つてあつたが、戦後の区長は手続に於いても地位についても簡略で、且つ軽いことは事実であつた。 一二、役場吏員と勤務状況 支那事変当時はさして目立つ程の変化もなかつたけれども、大東亜戦争に突入するや、戦場に軍人として召集されるもの、外に民間人が軍事産業、又は軍事施設の労務者として徴用使役されたから、次第に男子吏員を選定採用する余裕なく、希望者があれば大体採用するようになり、且つ女子吏員が採用され、而かもその数が俄に増加するようになつた。 昭和十八年九月二十九日宮城県内務部長より市町村長、水利組合長宛の内親号外によれば「決戦下戦力増強ノ緊急性二鑑ミ今般政府二於テハ官庁公共団体及学校等二勤務スル者二対スル微用制限ヲ撤廃シ、以テ国内勤労態勢ノ整備強化ヲ期スルコトト相成リ、近ク実施可相成候二付左記措置要領承知ノ上関係資料無遅滞提出相成度シ」 として方針実施手続等を指示して居る。これが次第に強化され終戦間近には最甚しく各課独立態勢から全吏員を網羅して横の事務連絡も容易ならしめ、これを五つの班に分け突発緊急の事務も相倚り相扶けやすく全吏員が全能力を発揮し得るようにし、又事務不慣れの女子吏員も夫々の能力を発揮し得るように組織したのである。 以上の如くであるから一、男子吏員の不足 二、適材採用困難三、事務不慣れの女子吏員増加 四、健康なる青壯年採用難 五、衣料食糧事情急迫、その上過労が集積して町長以下約二十名の職員勤務統計に次の如く数多き欠勤と三名の死者をも出している。 感冒その他欠勤多き季節の欠勤数 この状況は十九年より激増して二十年を最高とし、二十四年に入ると急に減じている。この表によつて前段の説明が理解されると共に、昭和二十年八月終戦となつても激務と栄養と健康とは急には回復せず、欠勤も従つて漸を追つて減じて居るのである。以上の事実から役場吏員も戦場に準じて心身を労し、三名までも戦病死ともいうべきものを出したと言える(筆者は十七年以来役場に終始していた) 一三、海鳥糞土の採掘 968 968

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