女川町誌
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の家庭でも作つたものである。 大戦時代から斯様に窮乏生活をして、やがて米軍占領時代となり、米軍の贅沢な生活を見せつけられ、昭和二十五年の講和条約締結となり、産業経済回復するや、国民は皆娯楽を求め服装を飾り、嗜好品に走り、産児制限法の奨励も手伝つて、男女間の道徳も甚しく乱れるようになつたが斯かる風潮は女川も例外ではないようだ。 九、初等教育と青年学校 第一次欧洲大戦末期から本県出身吉野作造博士等の紹介により、米国よりデモクラシーの思想が怒濤の如く寄せ来り、教育界も大なる影響を受けてあつたが、昭和時代に入るや反省期となつたかと思う間もなく、同六年の満洲事変同七年の五・一五事件等となつて軍部が政治を動かすようになり、昭和十一年の二・二六事件同十二年の支那事変勃発は、教育界をして国策遂行のための教育に向わしめ、日本精神とか八紘一宇を唱導し、敬神崇祖を民族精神なりとして、本県は先ず小学校長をして体験せしむべしとなし、短期間ではあるが神社と仏閣とに委嘱し宿泊修練をなさしめ、又兵営に宿泊して軍事訓練をなさしめたものである。又大正年代より両陛下の御影奉置所を鉄筋コンクリート造りにするようになり、昭和に入るや壯重なる建築様式となり、名称も一般に奉安殿と変り、登校退出の際児童職員は素より日曜日で何人も見る者なき時にも、校庭を通過する者は一般地方民すら奉安殿に最敬礼するのが女川地方の実情であつた。毎朝々礼の際はレコード又はラッパ奏楽裏に国旗を掲揚し、奉安殿に向つて最敬礼をなし、終業後国旗降下に際しても奏楽し、職員児童は其場から不動の姿勢で国旗に注目し敬礼するのが女川方面のみならず一般的のようであつた。四大節には挙式し、教育に関する勅語及び戍申詔書の精神、皇室の弥栄を寿ほぐ訓話をした。これは全国的法の定むる所でもあるから疑も持たず異論を起した物のあることも耳にしなかつたのである。 一方独乙のヒットラーが抬頭するや、ユーゲントの運動が影響し少年団訓練が起り、特に独乙の体育・社会奉仕・愛国活動・興国的気風が三国同盟の関係もあつてか地方小学校の教育にも浸透し、昭和十三年六月制定宮城県教育是は二百頁の解説書を発行し、国民精神の振作、県民性の陶冶、教育の時代即応等を鼓吹したから益国策遂行の教育となり、昭和十六年には小学校を国民学校と改め更に拍車をかけるようになつたわけである。青年学校の如きは国語・数学・実業科の教育を徴兵検査までは義務教育の如く受けさせられたが、軍事訓練は最も重く取扱われ、軍部より佐官階級の軍人が来て少くも一年一回は査閲し、町村長も臨席してその講評を聞かねばならないものであつた。斯様に深まり行く国策教育・軍事教育に対し、政治家も学者も評論家も教育関係者も強力なる軍部の圧力の前にこれを動かし得る発言はなく、前進して遂に大東亜戦争へと突入したのである。以上の時代思潮下に於ける女川町の教育は他町村もそうではあるが教員は誠に荷が重かつたと思う。女川・尾浦・出島・江島の四尋常高等小学校とも青年学校が附設されて小学校長が校長を兼ねたが、当時は事務官なく学級を担当せぬ教員は一名もなく、而かも校長以下上席教員は青年学校の普通学科を担当した 964

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