女川町誌
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和八、九年頃桃生郡某小学校の首席が無帽の為にカブラン先生と仇名をつけられた程であつたが、今日では若い先生は勿論、校長級でも中小学校では無帽が大多数である。従つて一般人も無帽が圧倒的でたまに五十位の年輩者に見る位のものである。 昭和二十九年の十二月東京築地小学校の講堂で、退職公務員連盟全国大会が開催され、北は北海道、南は鹿児島県から代表者一千五百名集つたが、閉会となつて廊下を通り道路に出ようとした時、児童等はアレアレ見ろよ皆帽子かぶつてるよと誠に珍らしげに友達に呼び聞かせて居るではないか、実に珍らしい騒ぎだと我々が驚いたが、老紳士達のお上り風景は戦後の東京には斯くうつゝたものである。女川に於ける帽子をかぶるのも夏を除いては大多数は老紳士ということで流行は早くも地方まで来たことを物語るものである。 支那事変末期の頃から満洲国が先駆をなした国民服というものが、国内でも一般化するようになつて来た。それはカーキー色の爪襟で、胸間に儀礼章をつければ弔祝何れにも通用出来る。至極簡純で便宜なもので、終戦まで用いられた、この頃は日本にも化学繊維が生産されたが、種類も少く質もまた今日のものに比べると雲泥の差であつた。綿や毛が杜絶したので、男子洋服地にも和服地にも混紡糸が用いられ、純毛の服地など手にはいらないこと勿論であつた。終戦酣わになつた頃は、手拭やハンケチに至るまで化繊で寿命も短かく又拭取りにくくつて困つたものであつた。農家組合や部落会に作業用として織物が特別配給になると、僅かの物でも多少を争い、殊にたまに純綿物などが来ると、それはそれは喜んだものである。それは繊維製品はすべて各家庭に配給になる点数券で商店から買うもので、その点数も誠に少く、とても日常生活に足りないからである。 斯様に繊維製品が少くなると純綿物が最も貴重品で、絹物などはほしくないのみならず、新調物などもコレは純綿だぞなどと誇示するようにまでなつた。女の服装は老若共に殆どモンペ姿で、外出着までモンペ姿で、若し諸会合があるとそれに白いエプロンを着る。国防婦人会などの時はエプロン姿に名称入りのたすき引つかけてどこへでも出る。長い着物に巾広い帯を〆めた女の姿は殆ど跡を絶つてしまつた。而かも若い男女の結婚式にさえ戦時的だというので、国民服にモンペ姿が奨励されたのである。筆者は銃後奉公会主事をしていたので、遺骨受領の為めに旅行したり、町内の葬儀に列する機会が多い方であつたが、万里同風のようであつた。夏は開襟シャツでネクタイはなく、紳士という立場の人もそれで葬儀にも列するのが通例となり、終戦十二年を経た今日でも左様な人々が相当遺つている。 終戦直前直後には革靴などは容易に求められるものではなく、古物でも大切に修理して使用したが、馬の革に粗悪なゴム底をつけた形の見にくい靴が、役場に配給された時などは飛びついて受取つたものである。斯様な状体であるから地下足袋が広く用いられ配給物を後生大事に修繕しながら長く使つたし、一方では下駄履も多くなり、外出に当り洋服に下駄は常用されたものである。しかし鼻緒は化繊交りの緒であるから自製物が広く用いられた。配給の普通足袋はとても弱く、殊に底がすぐ切れるので自製のものを用いなければ足りなかつたので、どこ 963

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