女川町誌
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のないドブロクが造られ、澄まして清酒らしい物へと進んだ。しかし清酒のうま味には及ばないから女川地方では昭和二十五六年頃から消えたようである。 終戦直前後には酒の最も少い時で、エチルアルコールを秘かに飲んだ者もあつたらしく、それを聞いてメチルアルコールを飲み盲目になつたり死んだ者さえ各地にあつたようである。 酒について今次大戦が生んだものに終戦後朝鮮人を主軸とする焼酎の密造営業が生れた。女川には摘発された者はないが、焼酎その物は相当流れて来たようである。終戦後政府焼酎も販売されて居たが密造物は遙かに安いから流れざるを得ない。殊に大会社のレッテルまで偽造使用するから手に負えないわけである。警察と税務所では懸命に摘発しているが手を換え品を変えて未だに跡を絶たない。新聞に掲載されたものを見ると登米郡豊里が最も回数多く、次は仙台市附近のようであるが必ず朝鮮人が主体で日本人も関係者として出る。 昭和三十二年八月末女川町の或る酒小売店について調べて見たら、小売一升の価格は二級清酒が五〇五円二級合成酒が三九〇円二十度焼酎が二八〇円、二十五度焼酎が三五〇円である。飲み甲斐と嗜好とで焼酎が相当売れるが中でも二十度の方が多い。二級合成酒は三十年頃までは可なり売れたが最近は二級清酒が王座を占めている。又年々増加する物に夏季のビールがある。醸造元で本年は三割増だと言つてるが、女川の売高も同様である。ブドー酒は五、六年前一年かゝつて売つた量の二倍位が一か月に売れるように伸びて居る。しかしこれは家庭用が主である所に特色があると。 八、服装及び衣料品 今次大戦を契機として著しい変化をしたものに服装と衣料を挙げねばならない。戦前の服装は壯重であつたのに対し、今日は軽快華美で、女物は色合からいうと著しく赤が強くなつた。そして男女共に和服が甚しく減少して洋服が圧倒的になつた。外出着になると女川辺では男子で和服などは殆ど見られない。女子も儀式の場合や冬服に見られる位のものである。 しかし面白いことには最近中学校の卒業式に列して見ると、女の子には袂の長い華美な色合の和服姿が八、九割位を占めるようになつたことである(昭和三十二年三月)男の子は平常でも儀式でも全部綿製洋服である。女の子は戦前はお下げ髪が多かつたが、次第におかつぱとなり、最近は大都会の風が次第に流れて来てお下げを、たまに見ることもある。一般女子は戦時中からパーマが始まつたが、女川には当時パーマネント屋は勿論なく、今は浜の方を加えて人口一万七千人ある女川に六軒位あつて店が成立つて居るのであるから流行の状況も畧推定されると思う。男子は戦前は坊主刈五分刈が主で、青年の如きはたまに分髪の者があつても、徴兵検査に行く時は絶対に坊主刈になつた程である。然るに今日に於いては坊主刈など実に珍らしいもので、漁夫も農夫も殆ど分髪にテカテカとポマードをつけて居る。帽子は戦前女子には全くなかつたが、今でも女川で見るのはバスガールと夏の女学生位のものである。男子では中小学校は勿論高等学校の生徒も制服であるから被ぶつているが、社会人となれば殆どかぶらない。一般人は戦前無帽は殆どなく昭962
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