女川町誌
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七、塩と嗜好品のいろいろ 戦争となるや塩の輸入も次第に窮屈になり、一部軍部の需要も多く、更に民間需要まで多くなつた。民間需要の増加は未利用のあまりうまくない食物に味付の為めと、副食物に漬物が多く食われたことなどもあつてか、渡波塩田の製塩業者から暗塩が相当流れたものである。之を買つて米作地に行けば、容易に米と交換が出来る、従つて自家製塩も始まり、海岸地帯では海水をそのまゝ煮詰めて、 自家用及び米交換用としたものである。当時暗炭と暗塩さえあれば暗米は飛んで来たものである。 タバコも大戦に伴つて配給となつたが、女川近傍に当時タバコ耕作者もなく、従つて暗タバコというものがなく愛煙家は隣家親戚の配給品と物々交換をしたり、それも意のまゝにならなければ、よもぎ・山ぶどうの葉・いたどりの葉などを揉んでカテにして吸つたり或はそれのみ単独のまゝ吸つたりしたものである。他の嗜好品も少く主食も少くないから、カツカツ吸いたかつたらしい。終戦後になると帰還者が従軍中の習慣と一般風潮が原因らしく若い者で喫煙しない者は殆ど見当らないようになつたことは著しい特色である。 砂糖も他の業者同様販売者は、企業整備を受けて店の数も少くなり、一面統制が厳重になつて役場からの配給券がなければ全然買えない。 代用食が多くなるにつけ、味付の砂糖が必要ではあり、甘党や子供はつくづくなやまされたものである。女川の農山村部落では甘藷や干柿を砂糖の代用として味付に使つたり、砂糖大根を作つて煮つめて用いてみたり、糯米を求めて水飴をこしらえたりした。しかし糯米はなかなか手に入り難く、殊に代用食品に交えるとよいので簡単に飴用にも出来ない。タバコは純然たる嗜好品であるのに反し、砂糖は家庭必需品という性質のものであるから、いざ砂糖が無いとなると今日の生活では想像もつかない苦痛であつた。終戦となつてもなかなか砂糖は出廻らないが、暗飴屋が出てこれはドサクサまぎれに相当儲けたらしい。今日と戦前とを比較したなら砂糖の消費量はどんなものか確実ではないが菓子屋の多くなつたことは確である。 酒は勿論統制配給で、部落会を通じて配給券が来る、大人の家族数に応じて、それも一人五勺位だから貴重品扱で飲まない家庭では物々交換をしたり、親戚に贈つたりしたものである。 それも一か月に二、三回だから左党にはとても満足が出来ない。米・麦・ジガャ芋などの供出があれば、農家組合長を通じ供出量に応じた褒賞酒というものがあり、漁業者にもあつた。これは合成酒の二級でプンとアルコールの臭いがある物であつた。飲屋には業務用酒が配給されるが、これ以て貴重品であるから客に対しては制限販売は当然だから、客も顔の利く人でないと飲めないことは無論である。しかし何々組合の会合という場合には役場から特配があるのでそれ等の持込みや或は防備隊員等の持込みなどがあつたから細々ながら少数の飲屋は営業をつゞけたらしい。こうした状態であるから、左党には満足の出来るはずはない遂に殆ど一般的にドブロクが各家庭で造られ、女や子供までも飯茶碗で一杯位はやるようになつた。どぶは大体酸味のあるものであつたが米軍が進駐するようになつてからイースト菌が普及して辛味と苦味が強く甘味の少いそして酸味961

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