女川町誌
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て疎開して来て居た者が多数あつた。筆者の家にも東京から娘とその子供二人は三年位も居てあつた。女川町には田がなく若干の畑があつて他に若干の基本生活の収入をもつ小商工、農山漁村生活をして居る点で似通つた家庭が多かつたので、中でも苦しかつた筆者の家庭生活をブチマケて見よう。食糧危機二、三百万の餓死を予想される時に筆者老夫婦に幼い孫、僅に三十を越したばかりの娘一人がたよりの生活である。当時娘には幾分の現金はある、しかし金があつてもその金で食糧が手に入るわけではないから恐ろしいのである。二十一年の春約一石の玄麦があつた。そして本年も一石に近い大麦(玄麦)が収穫されそうである。この危機が何時まで続くか本年だけはこれを中心にして生き抜こうと実に悲壮な決心を固め、南瓜・ジャガイモ・サツマイモは植えられるだけ植えさせ、野草は蓬・山牛蒡葉などそれにサツマイモの葉などを沢山乾させた。しかしこれだけでは蛋白脂肪面が不足するので長く保存がきくようにと十五メ入のシラスの上物一千三百円で求めた。当時の恩給は満三十五年勤続で年一千一百八十三円、海鳥糞土採掘女川主任で月百円だからシラス一俵代の一千三百円は相当の金額であるが随分考えての結果断行したものであつた。娘は町から配給の鰹を石油罐に入れ罐々部隊となつて逞しく物交を開始した。鉄道乗車券は二日か三日駅前に列を組んで順番を待たなければ買えない。そして栗原辺の奥地から暑い盛りに三日に一度位の割合で米三升とか精麦四升とかを背負つて来るのだから、町から配給される米と合せてそれに野草やシラスを交えて食うのであるが幼弱な孫等は、ともすると茶碗をながめ箸をつけるのにためらうことがしばしばであつた。ところが八月末頃から闇米屋の活動が本格的になり、米国の救援物資等も時々あつてシラス飯は十数回、野草や海藻イモヅルのかて飯も十数回位で、精麦を多く入れた麦飯中心で予想した程のことはなく通過することが出来たのでてる。 女川ではないが仙北某中学校の図画の先生が「苟しくも教員たる者が法律にそむき闇買をすべきものではないと頑張つて栄養失調となり遂に死んだ」と新聞にあつたが高知県に似たようなことがあつて新聞にのり、又どこかの裁判官もそのような事があつた。筆者はその都度胸を打たれるものがあつてもつい一般国民同様闇米を食つて今日まで生きて来たがこの闇米はいつまで続くだろう。ついでに闇米につき書き加えてみる。戦時中も闇米はあつたが、勝ち抜かねばならないという国民の強い緊張のために供出も比較的正直に行われ、従つて家庭配給量も苦しいながらも種々の混食等で間に合せられたから、甚しく目立つような闇米はなかつた。それが終戦となるや国民の緊張感はなく、法の権威さえうすらぎ、利己主義横行の時代となつたから、供出米代金について来る税金と寄附金をさけるため及び高い米をひそかに売るようになり、更に帰還者引揚者など職場のない人々は取りつき易い仕事でこれに流れる人が多く、闇米横行に拍車をかけるようになつたようである。東北地方から関東関西の都市に汽車やトラックで流れた闇米は夥しいものであるが、女川港からも他府県より来る鰹漁船が秋口の事業切り揚げの際タンマリ積み込んで行くことは当時も今も行われているようである。三十二年の秋につかまえられた船もあつたらしいから。960

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