女川町誌
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てはいない。 六、終戦前後の食糧 女川町は水田の総面積が四十町歩に充たない。而かも山間部が多いので、昭和三十二年でも反当一石七斗の収穫という統計が示されている。従つて終戦前後の産米高は誠に僅なもので、政府に供出した米は五石にも達しない程で、所謂農村の普通小農といわれる一軒分位のものであつた。当時の人口は約一万五千であるが、殆ど純消費者と言つてもよい実情である。そこに政府の内報として二、三百万人位の餓死者が出来るかも知れないから、食糧確保に万全の策をとれと伝わつて来たので町当局の苦悩、一般町民の不安焦燥は今日とても想像されるようなものではない。農村居住者ならたとい純消費者でも凶作ではないのだから隣近所に米がある、何んとかなるさと言う賴みもあるがトラックさえ少く、鉄道一本で運ばれる運命におかれた米無し地方の人々が、崩れゆく政府の権威と供出の細り行くらしさを耳にするにつけ、各家庭のなやみは明日の食糧に集中したのである。 昭和二十年はどうやら過ぎた。最も心配された二十一年は来た。それでも昨年産米の供出配給が順調な一、二月頃は無事であるが三月頃になると配給所即ち食糧営団出張所に米が順調に来ないとか、之に対する出張所長が無関心であるとかの批難がおこり、遂にその不満が表面化するようになつたのが四月二十三日の陳情書である。 陳情書 現下食糧事情の緊迫性に鑑み主要食糧の配給円滑の成否並配給業務担当責任者に対する一般町民信賴の有無は、消費規正最少限度実施の今日消費者の人心動揺に及ぼす影響寔に至大なるものと思考致し居る次第に有之候、就而曟に本町参与会並に本町常会に於ける要請として食糧営団出張所長たる業務最高担任者は、須く本町居住者たる要件を具備し、他市町村よりの通勤者にては業務上遺憾の点あるを指摘し、其の善処方に関し再三の申出も有之候に付、本町としては左記者最適任者と認め別紙事由書相添推薦致候条、何分の御詮議を以て選任方御取計相成度此段及陳情候也 記本籍 牡鹿郡女川町鷲神浜字鷲神一一〇番地 現住所 本籍地に同じ 松本俊男明治三十六年十月三日生 昭和二十一年四月二十三日 牡鹿郡女川町長 須 田 金太郎 宮城県知事 千葉三郎殿 宮城県食糧営団理事長 菊地専太郎殿 而かも五月二日同様の陳情書を重ねて出しているが、その書中に「最近は遅配旬日を越ゆる実情にあるも石巻市及び渡波町に於ては斯の如きことなきに鑑み云々」とまで言つている。如何に苦煩し焦躁の日々に追われたかが推察されると思う。次に宮城県の食糧危機対策の一部を記述して見よう。 昭和二十一年五月二十三日 食糧危機突破対策宮城県町村協議会953

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