女川町誌
1020/1094
着いたのである。ところが驚いたことにヒッソリ閑として人影が見えない。どうしたことであろうと思つたら、其の日は八月十五日午後であつたのだ。終戦の詔書を十二時のラジオで聞いて皆ガッカリしてしまつた所で、誰も外出をしない。婦人子供は十三日の夜海軍の防備隊から「敵艦北上し女川港襲撃の公算あるを以て急速に退避せよ」との命令があつて大部分は稲井村方面その他に行つて居ないのである。入団待遠しく張切つて居た丹野君も力が抜けて、どうしたらよいのか困り切つたということである。 飛行機銀河はY二〇とも称し、性能非常に優れ桜花又は丸大と称する一人乗飛行機を抱いて敵航空母艦に編隊で近づき、頃合よしと思う時桜花は離れて敵艦の煙突に突込んで爆沈させる飛行機であつたそうだ。当時盛に歌われた軍歌に次のようなのがあつたということである。 貴様とおれとは同機の桜 同じ兵学校の庭に咲く 咲いた花なら散るのが覚悟 見事散りましよ国のため 更に性能の変つたのにゼロ戦というのがあつた。これは上空に直線に上つて行つてB二十九の翼を突き抜いて落すのである。しばしば痛快な戦をしたが、そのB二十九から落下傘で下りて来たやつを捕えて見ると女子が随分あつたには驚いたということである。 五、終戦前後の交通 昭和十九年頃には、堅牢な運搬船は素より漁船でも三十屯位になると、大部分徴用されて軍需物資等の運搬に当り、足島附近に敵潜水艦が現れたり、金華山灯台が砲撃されたりしているから、海上交通は甚しく困難になつたが、陸上はトラック・バス・ハイヤーなどは徴用されて民間用は殆ど見られなくなつた。斯様になると同時に唯一本に集まつた鉄道交通は誠に窮屈という言葉を通り越して物凄い様相を呈して来たので、各駅は乗車券の発売を厳しく制限したが、それでもその混雑は少しも解消しない。公務出張の者はその首長の証明によつて切符が買えるけれども、民間人の旅行にはあの手この手等の風評さえ立つようになつた。筆者は銃後奉公会主事であつたから東京・姫路・門司等に終戦直前も遺骨受取りに遺族を伴つて度々旅行をしたが、二日分も三日分もお握りを持つて長くなるとその外に米も持たねばならない。駅の売店にも東京都内でも酒一滴、そば一ぱい、菓子一個だつて売つている所は全くないのだから、乗客のすべてが大型リックサックに食料をつめてない者はない。用達ついでに買つて来る者、土産に持つて行く者さえある。従つて汽車の網棚が破れてるものさえあった。而かも腰掛の下にも通路にも荷物は一ぱいで歩けない。こんな状態であるから乗車券は買つて郷里は出発しても、中間乗替駅で乗れないことは度々ある。筆者が門司に行く時は一行三人だが小牛田駅で満員々々で上野行を二回も見送り、三回目に窓から下車した一人を見つけ、そこから、ドヤドヤ三人乗り込んだことがある。義理や体裁を語つてると何時まで待つても乗れないのであるから仕方がない。通路がふさがつているから老人や婦人でさえ、窓から乗つたり降りたりするのをしばしば見られた。駅では窓から950
元のページ
../index.html#1020