女川町誌
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方山の根方に防空壕を掘り空襲に備えて居たので空襲が始まるやソレッと家族や工員が皆避難しましたが、どうも造船所がねらわれてるらしく機銃掃射も爆弾投下も多いので危険身に迫ると思つたから午後には工員を全部帰宅させたのです。 私の家の側に落ちた爆弾の穴は経六十尺深さ十八尺、その土礫が吹き飛んで十五六間も離れた工場の屋根に一尺乃至二尺の厚さに積もつたのです。御殿山の方から西に向つて低空飛行して来て事務所の側に投下したやつはその穴が経五十尺深さ十五尺、そこに一本七十五貫のレールが十本置いてあつたのですが三間巾の県道の向側にある山田さんの屋根の上に土礫と共にそつくり吹き上げられてしまつたのには驚きました。従って山田さんの損害は軽少なものではなかつたのです。私の住宅は戸障子を皆はずし取つて置いたからその損害は殆どなかつたのでしたけれども、畳の上には二寸平均位の土礫がつもり又妙なことには裏板に一寸平均位の土がつもつて居たのです。壕の中に居ても次々と敵機が電柱にも触れそうに低空やつて来て掃射をする爆弾を投下するので飛行風やら爆風やらそれ等の音響やらで生きた心地がないとはほんとうにあの時のことでした。空襲が止んだというので壕から出て見ると附近一帯は建物といわず道路や空地船体といわず悉く赤土に覆われてしまつて居るではありませんか。鷲神角浜方面の人達は当時造船場附近は全滅したものだと合点したそうですが全く凄惨な光景でした。 空襲を語る(その三) 宮ヶ崎 伊藤良子さん 伊藤良子さんは伊藤富士蔵氏夫人で当時二十六才であつた。曰く、空襲だッという声を聞くや、それッとばかりかねて私共の部落会で苦辛構築した防空壕に逃げ込みました。五六十名位はあつたようです。八月九日でした、むし暑い盛りに五六十名も詰つたから息苦しいのですけれども黒森の方から低空を機関銃で掃射して来るのですからとても壕の外には出られないのです。一寸でも空襲が止むと外気を吸いに出るのですが、あれは九日の何時頃でしたか又来たぞッと誰かがドナル我先きにと駈け込んだら間もなくパチパチと掃射の音が聞こえたかと思うと同時に恐ろしく大きいドシンという音がしました。その音と同時に大きい地震が起り壕がつぶれるかと思う間もなく土礫で壕の入口が半分以上塞がりサア大変と肝をつぶしたのでしたが幸にも土質のよさと壕の構築規画がよかつたことにより壕の真上に投下された五十キロ爆弾に耐え全員無事安全互に顔見合せて喜んだのでした。 四、終戦を語る 女川町書記 丹野巌君 丹野巌君は昭和十八年三月女川国民学校高等科を卒業するや横須賀海軍航空技術廠見習工員養成所に志願し、一千六百名中の一員になつた。一か年にして五百名は中島飛行機製作所に派遣され、銀河と称する飛行機組立に従事し、同十九年十月全員横須賀に戻り桜花と称する一人乗り体当り飛行機製作所の組立に従事し、二十年三月海兵団入団の試験に合格して、八月五日浜名海兵団入団に決定し、八月一日帰郷し三日入団兵として町民より壮なる見送りを受けて出発はしたが、浜名海兵団が空爆を受けて入団が二十日に延期となり、横須賀から一時休暇で引返し、車中から各地のなまなましい空爆の跡を見つゝ女川駅に 949
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