女川町誌
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川防備隊連絡員隊長外十名町役場の二階に宿泊することゝなつた。この頃濃霧連日晴れなかつたが、(十二日十三日十四日)十三日夜防備隊より役場に連絡があつた。「敵艦北上し女川湾艦砲射撃の公算あり近くは稲井村方面遠くは栗原方面に疎開せよ」とその夜の疎開者は曇った薄月夜を利用して、女川鷲神方面から稲井村沢田を越えて井内・真野・大爪方面に一晩続いた。自動車は殆どなく二台位の馬車とリヤカーが運搬機で大部は背負つて歩くのであるから大変な仕事である。十四日にも敵機は来たが警報だけで空襲にまでは至らなかつたが、疎開者は引きもきらずで馬車に食糧を積み家族を乗せて家主のみ残り栗原方面にあてどもなくのがれしめた人もあり種々様々であるが、多くは家族と永別の杯を交し家長又は家長夫妻のみ残つて疎開させた。この頃の悲壮な決心はとても今日に於いては思い出すことすら出来ないと言いたい程である。 ラジオは十五日正午重大放送があると伝えている。その前に長崎と広島に原子爆弾というものが投下されて、その広範囲に渉る大惨害を伝えている。そこえ今日は陛下の重大放送があると来たので、愈本土決戦だなと思つた者が大部分であつたが、意外にも涙ながらの国民をいたわる終戦の詔書である。悲しいのであるか安心したのであるかわからない感じだ。それは日本は日本民族は否我々はどうなるかわからないからである。様々の流言蜚語もあるからである。これが直後の感じであつた。 昭和二十年九月十五日附知事に報告 戦災による公共建築物(破壊のみ) 一、尾浦国民学校 価格一〇五、〇〇〇円(応急復旧見積六、一三〇円) 二、女川国民学校女川分校〃 二五、〇〇〇円(〃 二、五〇〇円) 三、江島国民学校〃 一〇二、〇〇〇円(〃 一、三五〇円) 計〃二三二、〇〇〇円(〃 九、九八〇円) 昭和二十年九月廿一日附知事に報告 一、警防費 (昭和二十年) 二一、〇五九円(同十九年)一二、五九六円二、事業費 (〃 )五七二、〇〇〇円主として防空壕設備財源国庫補助と寄附 二、空襲被害概況 一、小乗浜。爆風により教員住宅一棟倒壊。部落内民家のカラス五、六十枚破壊 二、角浜。油タンク三千屯一基。三百屯二基。百屯一基に対し約六十の銃弾痕あつた。爆風のため壁等破損二戸、ガラス数十枚。 三、鷲神。機帆船碇泊中のもの四、五隻沈没。家屋焼失一、倒壊又は大破三。 四、高辺崎附近。時限爆弾のためらしく空襲終つて約二時間後庄子新蔵氏倉庫内の石油ドラム罐より発火し十一戸十五、六棟焼失した。 五、女川駅周辺。爆弾数個投下され駅の倉庫に命中して殻類・油等の貨物焼失し、又ホームの東隣にある前仮兵舎であつた民家数棟消失。 六、宮ヶ崎及福田造船所。爆弾六個、機銃掃射無数で新造中の船中破一、修理中の船小破一、工場及び附近の民家土砂を大量に被つて大破、特に七十五貫のレール十本揃つて山田氏の屋根に吹つ飛んで行つて落下したので屋根大破。 947
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