女川町誌
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海防艦大浜が碇泊し、今の日本水産の前より防波堤の中間頃までに駆潜艇掃海艇など三隻居て防戦攻撃これ努め、三十三観音山・宮崎・石浜・小乗方面に陸上防空銃座が約十か所もあつて艦艇と協力して射撃したが、第一日で何れも殆ど不能となり翌日は、彼等の思うがまゝに行動せられたのである。爆沈や轟沈して行く艦艇の有様や爆破される建物や土砂の飛び上るすさまじさ、さては掃射される時のすごさなど目撃もし体験もした女川町民は、とても如何に頑張つても国民義勇隊のような武器のない者や婦人竹槍隊の如きは、手も足も出ないと観念させられてしまつた。 この空襲で死傷者を出したのは江島である。その原因としては㈠昭和十七年十月頃一少隊約五十名を率いて松尾少尉が駐屯し、ついで吉田少尉が後をついだが、部隊名は東部二一一二部隊と称し、東京湾要塞重砲兵連隊即ち横須賀司令部からの派遣隊で、砲二門を備え足島沖に現れた敵の潜水艦を数回砲撃したこと、而かも一回は撃沈の公算であつたこと。昭和十九年十二月に至つて第二師団と交代し、二十年六月にはこの派遣隊も引揚げたのではある。㈡防空壕の完成がおくれたこと。㈢グラマン敵戦闘機が来ても掃射などされまいと始めのうちは軽視したらしいこと。以上の理由により小型爆弾と掃射を民家に向けられて屋内死傷者多く、又海岸と防空壕附近の死傷者があつて合計死者十九名、負傷者十六名を出すに至つたのである。十六名の負傷者は八月十日各医院に収容し、島民は多数女川国民学校(第一小学校)に疎開宿泊した。当時の掃射の弾痕のない家屋は江島には誠に少いものであつた。女川港周辺の損害は人命は艦艇勤務の軍人で明確ではないが、照源寺に当時収容した氏名の明確なもの百二十七、その後沈船の鉄を取るために民間人が潜水して、昭和三十二年までに発見収容したものは骨がばらばらに放れて形をなさないが回数で十数回人数で言つたら二十人分もあつたか。艦艇は港内の四隻と竹浦湾に居た肖戒艇と合せて五隻、小乗の二百米位南に居た捕鯨船一、鷲神前に居た運搬船数隻、家屋の爆破は駅前その他数軒、時限爆弾や掃射で発火焼失数軒もあつた。 敵に与えた損失は大浜以下艦艇の力によるものが主で、防備隊が山上に設けた機関銃座も貢献したと思われるが、防備隊の調査では十三機と称し、女川町義勇隊の監視員は八機と称して居る。その内女川湾内の見える所に墜落したのは三機で、他は火を噴きつゝ洋上に去つた。撃墜したうちの一機は空中分解して搭乗員が落下傘で寺間沖に着水したが支邦事変帰りの在郷軍人某氏は当時の青年訓練生(青年学校生徒)二名を率い小舟で近より木銃を以て射撃の姿勢をしたら先方は手を挙げたので、その小舟に収容し女川港の憲兵派出所に渡した波曾部憲兵伍長が仙台に護送しいろいろ尋ねたらロンドン生れの中尉であることがわかり、且つ別れて来る時御健闘を祈ると英語で言つて居たということであつたが、寺間の親切な待遇が後日賞されたという。 九日十日の空襲を受けて後は、町民は全く不安そのもので、灯火管制は一層厳重になると共に、ラジオによると敵は富士山を目標として飛来しとか、金華山を目標としてなどゝいう言葉に神経をとがらし、若しやしやと思つてるうちに八月十三日女 946
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