女川町誌
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第十四編 終戦前後終戦前後の女川町 大東亜戦は日本国民の大きな夢であり、また建国以来の最大な苦難の途であつた。わが郷土女川町は早くより着眼された三陸沿岸に於ける優良港であつたので、戦時中はわが国海軍の防備隊並に特殊潜航艇隊などの基地となつていた。 かような実情よりわが国沿岸の防備策戦上の重要な地点となつていたので、一面敵国の一攻撃の目標点であり、また上陸作戦地と目されていたのである。従つて戦時中の女川町は全く熾烈な空襲下にあり、また物資欠乏の只中に置かれたので、全町民の日々の努力と耐乏生活とは、涙ぐましいものであつた。この編に於ては主として終戦前後に於ける女川地方の実情を卒直に綴つて当時を偲び、且つ後日の為の国民反省の資に供したいと思う。 幸、終戦後に於ける日本国民は、敗戦を国家再建の一大試練とし、不屈不撓、よく困苦欠乏の中より立ち上り、十年足らずの歳月にして、戦前に勝る復興を見るに至つた。わが郷土女川町に於ても政治・経済・文化の各方面に亘り、真に目覚しい進歩発達を遂げつつあることは、力強い次第である。 一、空襲下の女川 女川町に始めて空襲の警戒警報が発令されたのは昭和十八年四月四日であつた。既にラジオや新聞で空襲の恐ろしさは知つていたから急に戦場が身近に迫つて来たような感じがした。空襲警報の発令は十九年の十一月二十五日からで、愈々という感じを深くしたものである。 警報回数町民は警報の信号が鳴り響くと、日中は互に敵機の爆音に注意してその動向を察し、夜間であれば焚火や電灯の光が屋外にもれないよう厚紙を貼つたり、ゴザなどを垂れて万全の策を講じ、神経を過敏に働かせて警戒したものである。十九年の冬頃であつたか、稲井村の一農家が不用意に灯火をもらしてあつた為めに、焼夷弾を投下され渡波にも夜間同様の空襲があつてからは一層自粛したものであるが、部落会長や班長は不十分な灯火管制の家があると巡回して個々に注意したから、町民の緊張と真面目さは今考えると克くやつたものだと思われる程である。 943

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